男たちが見た小池百合子という女

文春オンライン転載

小池百合子とは何者なのか。

カイロ大留学を経て、キャスターとして颯爽とテレビ画面にデビュー。1992年には新党旋風の中で政界入りを果たす。その後、いくつかの政党を渡り歩くが、彼女の周囲には、細川護煕、小沢一郎、小泉純一郎ら、常に権力者の姿があった。

「男たち」の証言から、女性初の都知事の素顔に迫る。

駅前のロータリーは歩道橋の上まで埋め尽くされていたが、彼女のイメージカラーである緑色のものを身に着けた人は、ほとんど見受けられなかった。

選挙カーの上では候補者の横で黄緑色のジャケットを着た小池百合子都知事が、よどみなく話し続けていた。私の前にいた初老の男性が、

「うまいねえ。大したもんだ」

と隣の女性に語りかけるのを耳にしたが、その口調には、どこか茶の間でテレビを見ながら論評しているような空虚さが感じられた。

選挙カーの上から彼女は観客を巻き込もうと問いかけるように話すのだが拍手はまばらだった。

昨夏の都知事選では緑色の服をまとった、あるいは緑のハンカチやキュウリやニガウリを握りしめた群衆が殺到し、小池の演説に熱狂して、さかんに共感の拍手を送り、さながら野外劇場の観があったものだが。

「小池百合子の前半生を描いて欲しい」と月刊誌『新潮45』から依頼があり、寄稿したのは昨年暮れのこと。以来、私はずっと「戸惑い」を感じながら、今に至っている。

彼女は非常に発信能力の長けた人で著作も多い。また、マスコミ好きでテレビや雑誌上のインタビューにも積極的に応じ、自分を多弁に語ってきた人である。だが、その彼女の「語り」をどこまで信じていいのか。

例えば彼女はカイロ大学を「首席で卒業した」と語っているのだが、アラブ語を学んだことのない留学生がカイロ大学を首席で卒業できるとは、私にはどうしても考えられない。

また、その主張や行動には一貫性が見出せず、彼女が何を思い、何を求めて生きているのかが理解できない。彼女はアジアとの協調路線を謳った日本新党の出身で強烈な「自民党批判」で世に出た人である。ところが自民党に移ると、タカ派的な発言を繰り返すようになる。リベラル層を取り込んで東京都知事になったが、彼女は本当に「リベラル」な考え方の持ち主なのか。

細川護熙、小沢一郎、小泉純一郎と、政治信条もタイプもまったく異なる実力者の傍らに常にポジションを得て、口の悪い人々からは「権力と寝る女」、「渡り鳥」と揶揄されながらも政界を泳ぎ切った女性である。

そして彼女は今、権力者の傍らから離れて、自らの手で地位を掴み、さらには政党まで作ってしまったのだった。

一体、小池百合子とは何者なのか。彼女の「語り」に耳を傾けるだけでは決して実像は見えてこない。ならば、小池と関わりのあった他者たちは、彼女をどう語るのか。そこには本人の「語り」とはまた別の物語が見出せるはずである。

「やります」と即断

エジプトの首都カイロで大学を卒業し、通訳兼ガイドをしていた小池は日本テレビの幹部と現地で知り合い、それが縁となって「竹村健一の世相講談」のアシスタントに選ばれる。その後、テレビ東京が夜の経済情報番組「ワールドビジネスサテライト」を立ち上げるにあたり、初代キャスターとして引き抜かれるのは、ちょうど昭和が終わろうという時期であった。小池の起用を決めたのは日経新聞出身で、当時はテレビ東京取締役報道局長の立場にあった池内正人。

「あるパーティーの席で偶然、一緒になってね、『やってみる気あるか』と聞いたら、『やります』と即断即決だった。彼女は芸能プロダクションに所属していなかったから本人の意思で決められたんだ」

華やかな容姿と頭の回転の速さ。加えて努力家で根性もあった。番組は軌道に乗った。ところが4年後の1992年、細川護熙が新党を立ち上げ、彼女を政界へと勧誘した。

「立派なニュースキャスターになれば、よっぽど社会に影響力を持てる。政治家になったって、どうせ陣笠どまりだ。つまらないじゃないかって引き留めたんだけれどね、彼女はポロポロ泣きながら、『最初は陣笠でも、それで終わるつもりはありません』と言ってね。そういえば話し合いの後、彼女が化粧室に行ったんだけど戻ってきたら、さっきまで泣いていたとは思えない晴れやかな顔をしていたので、あれって思った」

92年、40歳での決断だった。彼女はおそらく自分の年齢を意識していたのだろう。いくら持てはやされていても、テレビの世界で女性は長く活躍できない。容姿が衰えれば若い女性にとって代わられる。自分をもっと有益に生かし得る、第2ステージとして政界を選んだのだろう。永田町ならば、まだ女の寿命は長い。直後の参議院選で当選。党首の細川護熙とは美男美女の組み合わせで日本新党の広告塔となった。細川が語る。

「私が新党を立ち上げようとしたとき、周りにいたのは地味な年配の男性たちばかりでした。花がないと指摘され、小池さんをお迎えするよう助言されたんです」

余談めくが、この頃の小池の最大の武器は、知名度とミニスカートだった。本人自身が「ミニスカートとハイヒールで戦います」と宣言し、選挙期間中も当選後もずっとミニスカートで通した。彼女が選挙カーの梯子を登る時、カメラマンたちが殺到したが、嫌な顔も見せなかった。ファッションを重視し、自分の容姿を最大限に生かそうとする。どうすればマスコミが注目するか、骨の髄からわかっていたのだろう。何を着るか、髪型をどうするか、口紅の色に至るまで細心の注意を払った。それは彼女の最大の関心事であると同時に、有権者の関心事でもあると理解していたのだろう。

細川が内閣総理大臣となる中、彼女が党内で担当したのは広報と候補者の選定だった。細川が続ける。

「発想が自由で独特でした。例えば、ポスター用に『政治家、総とっかえ』なんていうキャッチフレーズを思いつく。私に記者会見でプロンプターを使うように勧めてくれたのも彼女でした。候補者の選定でも、テキパキと指揮を執ってくれた。一方、政策面には、そんなにコミットしていなかったかもしれません。そこは主として新聞記者や学者に手伝ってもらっていましたので」

表情を作って話をする

政策の中身よりも、話し方やネクタイの趣味のほうがテレビを見る有権者の心を掴む。この頃から、テレビが政治を左右する傾向が強くなっていた。見た目や、ワンフレーズの受け答えが重視される。平成時代に入って政治そのものがファッション化していった。小池は時代の申し子だったのかもしれない。

「テレビの影響で政治家のあり方が変わり、テレビにうまく対応できる人が政治家として売れていくという時代になった。小池さんもその中から出てきた人、というか、彼女はテレビの中から生まれ、その先頭にいた人でしょう」

そう指摘するのは、日本新党に合流した元社民連代表の江田五月だ。

「小池さんは日本新党のフレッシュなイメージを象徴する役割を担わされていたから、見られる、ということに過剰になってしまったのかもしれない。今でも、すごく表情をつくって話をする。ああ、小池さんだな、と思う」

細川政権は7党1会派からなる連立政権だったため始終、政策をすり合わせる必要があった。だが、そういった場に小池がいることはなかった。表向きは日本新党の顔だが、任されたのは候補者選びと広報、マスコミ対策に限られていたからだ。

絶大な人気を博したものの、細川政権は短命に終わる。彼女にとって最大の庇護者だった細川が首相辞任を表明すると、その行動は素早かった。日本新党に所属していた遠藤利明元2020年東京オリンピック・パラリンピック大臣が語る。

「細川さんが辞めると言い出した時、彼女は自分が代わりに党首になるか、もしくは日本新党を解党し新しい政党をつくり自分が党首になるかで悩んでいました。その頃からトップに立ちたいという意欲はあったんだよね」

一方、江田の証言は、少し異なる。

「細川さんの輝きが失われて、ぐらつき始めた時、彼女はもう連立を組む新生党の小沢一郎さんに近づいていた。機を見るに敏だなあ、と感じた記憶があります」

自分がトップに立つか、小沢の元に参じるかで悩み後者を選んだ、ということのようだ。

細川が辞任した94年の暮には、日本新党、公明党の一部、小沢が率いる新生党ほかが合併して海部俊樹を党首に新進党が誕生。横浜アリーナで客席を一枚布が蔽う華やかな党大会が催され話題をさらった。この時、江田は大会招集委員長を務め、その後、広報企画委員長を担当。小池は広報企画委員長代理だった。江田は続ける。

「小池さんは演出や広報は確かにうまい。ただ、それは表面的なことなんですよね。環境大臣時代に『クールビズ』というのを打ち出しましたが、なぜ環境が大切なのか、そういった信念みたいなものは伝わってこない」

新進党は200人を超える大野党として好スタートを切ったものの羽田孜と小沢一郎の対立が深刻化し、やがて内紛となる。江田や細川は羽田につき、小池は小沢についた。新進党の解党後は、小沢とともに自由党に参加。

この時、行動をともにした同僚に西村眞吾がいる。新進党、自由党で一緒に過ごした西村は「やくざ世界でいえば、『姐さん』のようなポジション」だったと小池を語る。

「トップと近い。彼女は常にそう見られるように振舞っていた。男にはできないよ。常に脚光を浴びる人物の隣に陣取る。だいたい、街宣車の上で小泉純一郎のネクタイ、男が直しても様にならんわな。

例えば小沢さんと飯を食う。そうすると彼女は必ず小沢さんの隣に座る。俺は党首だから『小沢先生』と呼ぶ。彼女は『小沢さん』と呼ぶ。傍から見たら、俺より上、というふうに映るわな。昔、耳かき専門の坊さんがおった。秀吉の時代。坊さんが秀吉の耳かきをする。耳かきしながら、何かしゃべってるように見せかける。実際はしゃべってへんのやけれど。すると周りの大名たちには、坊さんが何かささやいているように見える。で、その坊さんのところには大名から付け届けがたくさん届く。政界にはそういう人間が多い。

最近の小池百合子を見ていて、よく思い出すのは管野スガ。大逆事件で女性で唯一死刑囚になった人や。このスガは死刑になるとき、他の男たちと違うて、まったく取り乱さなかったそうやね。俺の大学の先生が、この話をしてくれて、こう言うた。『女はな、アバズレほど度胸が据わってるもんや』。あと、朴槿恵にも似てる。孤独な感じが。目が笑うてない。拉致被害者の議連でも一緒やったけれど、テレビカメラが入ると、必ず映り込む。あれは本能やと思った」

権力者の傍らにいること、トップと近しいと周囲に思わせること、マスコミに登場し知名度を保ち続けること。そのためにはどうしたらいいのか。彼女の関心は、常にそこにあったのか。だからこそ、政策や信念は周囲の状況に合わせてぶれていくのだろうか。西村は続けた。

「コロッと自説を変えてしまうことがあった。例えば、在日外国人参政権、俺も小池も反対してた。ところが、小沢さんが賛成となったら、小池もそっち側に回っていた」

権力者への徹底的な忠誠。しかし、それすらもある日、突然変わってしまう。

小沢一郎の側近中の側近、自由党時代には参議院議員も務めた「小沢の懐刀」平野貞夫が振り返る。

「自由党は自民党と連立しましたが、連立を続けるべきか、あるいは袂を分かつべきかで、党内の意見が分かれた。小池さんも僕も、リベラルな保守政党として、自民党とは一緒にならずにやるべきだと思っていた。小池さんは『自民党に合流しないで踏ん張りましょうよ』と言ってね。小沢も感激していた。ところが、そんな小池さんに公明党を通じて自民党が『応援するから自由党を出ろ』と揺さぶりをかけてきた。でも、小池さんを信じていたから小沢は特に対策はしなかったんです」

自民党なんかとくっついてはダメだと主張する急先鋒だった小池が、離反するとは考えられなかったと平野はいう。

「でも、いよいよ小池さんが怪しい、抜けそうだと情報が入ったので、私は小沢に、『小池さんに電話して残るように説得してくれ』と頼んだ。それで小沢が小池さんに連絡をして、『自由党で比例第1位にするから残ってくれ』と引き留めたんです。ところが、その時、小池さんがなんて言ったか。『比例1位といっても自由党から当選者が出ると思ってるんですか』って。どうして、そんなに薄情なことが言えるのか。愕然とした」

小池は細川のもとを離れた時と同じように、主(あるじ)であった小沢から離反した理由を、さかんにマスコミに吹聴した。小沢の政治手法に疑問を感じたからだ、と。平野はいう。

「直前まで小沢にあれだけ迎合していたのだから、それは言い訳になっていないと思う」

小池は保守党を経由して、予定どおり自民党入りを果たす。2002年、政治家になって11年目のことだった。

「自民党を変えるには中に入って変えるのが一番だと気づいたからだ」と、彼女は語っている。

郵政選挙の刺客第1号に

永田町も一定数は女性を起用しなければ、世論の反発を招くと意識するようになっていた。女性議員であり、ある程度のキャリアを持ち、広報宣伝に長け、マスコミ受けする小池は、他党に置いておくよりも、引き入れて仲間にしたほうが得と自民党は判断したのだろう。

彼女にとって幸いしたのは、総裁が「自民党をぶっ壊す」が口癖の小泉純一郎だったことだ。翌年、小泉内閣でいきなり環境大臣に抜擢される。小泉ならではの「サプライズ人事」。当選回数や派閥でポストを割り振るそれまでの自民党内のルールを無視したやり方で、党内に総裁の力を見せつける効果があった。この時から、小泉と小池の間に「共犯関係」が生まれる。小泉政権の申し子として、小池は先回りして小泉の意を汲むようになるが、その最たる例がくだんの郵政選挙であったろう。

小泉は郵政民営化法案に反対する自民党議員の選挙区に、それぞれ「刺客」を送り込む。この時、真っ先に手をあげて自ら刺客第1号になると宣言したのが小池だった。

小池は自民党の実力者、小林興起のいる東京10区に降り立った。小林らには「抵抗勢力」というレッテルが張られ、連日、ワイドショーは小林と小池の対立構造を報道し続けた。小林が悔しさをにじませ、当時を振り返る。

「郵政民営化は、アメリカが要請したこと。心ある日本の政治家なら反対するのが当たり前です。日本の富をアメリカに叩き売るという法案なんだから。小泉さんは自分の権力を保持するために、アメリカにすり寄った。それにしても、あんなに凄まじい印象操作がされるなんて思ってもいなかった。クリーンな小泉さんに、かわいい小池さんが賛同して一緒にやっつけるっていう図にされてしまった」

総裁に楯突くのだから干されることは覚悟していた。しかし、まさか刺客を送り込まれ落選した上に、除名処分を下されるとまでは思っていなかったという。

「政治家になるために通産省に入った。通産省に入るために東大法学部に行った。そのために日比谷高校に行った。小学生の時、父が政治家という職業があることを教えてくれたんです。でも、うちには、何もないから学問をして政治家になれと。小池さんは小泉さんに気に入られて、すぐに環境大臣になった。でも、それだけでは満足しないで大臣なのに自分の選挙区をあっさり捨てて、刺客に立候補した。どうしてそこまで小泉さんにゴマをすったのか。選挙の時も『私は環境大臣で忙しくて、郵政民営化なんて勉強するヒマはなかった』と堂々と言っていた。それなら、なぜ手をあげてまで刺客になるのか。それは主義主張がないからで、ただの遊泳術だ」

キャスター時代に培った、ワンフレーズの受け答え。魅力的な表情の作り方、よどみのない話し方。政局がテレビを通じて茶の間に提供される。メディアと彼女が組んだ時、その力は絶大なものとなる。

発端は沖縄の基地問題

自民党の閣僚となった小池とメディアが組んだ結果、その後半生を大きく狂わされた人物がもうひとりいる。防衛省の大物事務次官として知られた守屋武昌だ。第1次安倍内閣で久間章生大臣が失言により更迭されると、小泉元首相の意向で後任に小池が指名される。着任時に職員が新大臣に手渡す花束に「百合の花を入れろ」というのが、小池から下された最初の注文だった。

彼女は着任するとすぐに、守屋事務次官とバトルをはじめ、その模様をマスコミは郵政選挙の時と同じように煽った。守屋は事務次官の座を追われ、同時に小池も自ら防衛大臣の座を2カ月にも満たずに降りている。一体、何があったのか。

当時、マスコミには本質が伝えられなかったが、沖縄の基地移転問題に端を発していたと、守屋武昌元事務次官は今、口にする。

「小池さんは防衛大臣になる前、小泉政権下、環境大臣と兼務で沖縄及び北方対策担当大臣をしていた。その時から、沖縄問題に大きく関与してきた。小池さんには沖縄基地問題を解決して名を挙げたい、という強烈な欲が感じられました。また、沖縄財界の一部の人たちと繋がっていて、そこで聞かされる話を鵜呑みにしていた。

小池さんは『あなたたちが主張しているV字型滑走路案はやめて、辺野古の沖合を埋め立てる案にしたほうがいい。沖縄の財界もそれを望んでいる』と言いました。環境大臣をやっていた人が海を埋め立てればいいと簡単に言うのが不思議でした。V字型滑走路案というのは米軍基地内を中心に滑走路を作るという案で、これならサンゴ礁への影響を最小限にできる。一方、沖合埋立案は、環境を破壊します。環境派を敵に回すわけにはいかない。しかし、埋立案のほうが公共事業としては、地元の業者を潤すことになるので、沖縄財界は盛んに揺さぶりをかけていたんです。こういった複雑な事情を小池さんは、十分に理解していなかった。国防に対する知識は、それまでの歴代の大臣と比べて失礼ですが低かった」

ふたりの対立は、はた目にも明らかだった。小池は露骨に守屋を遠ざけ、守屋の部下である警察庁出身の西川徹矢官房長に接近する。そんな中で突然、毎日新聞に「守屋退任へ、後任は西川」の記事が出た。守屋は何も知らされておらず、報道を見て愕然とする。なぜ、事前に伝えてくれなかったのかと小池に抗議すると、「前日の電話に出なかった、あなたが悪い」と言われ、同時にマスコミに対しては「事務次官に電話がつながらないのは、危機管理上も問題だと思う」と吹聴された。守屋は言う。

「私を外したい、ということなら、私に直接、昼間に役所で言ってくれればいい。その機会はいくらでもありました。なぜ、陰でこそこそとやるのか。こういうやり方は組織を壊します。小池さんからの電話は夜中の12時過ぎ。私の携帯電話に1回だけ、しかもワンギリです。私は就寝していて気づきませんでした。大事な電話なら、2度、3度とかけるのではないでしょうか。マスコミには事実を曲げてお話しになる。出られないようなかけ方をして、出なかった、けしからん首だ、というのは、何十年も役所に勤めあげた公務員に対してやることでしょうか。

そもそも事務次官の後任人事は、事務方にも相談し官邸を通して決めることです。小池さんは自分の決めた人事案を、親しい新聞記者に自らリークした。既成事実化し、外堀を埋めてしまえば、それが現実になるという考え方は無謀です。新聞記事が出た日の午後、小池さんはアメリカへ向かいました。『私なら基地問題をライス国務長官と女同士、英語で話せば説得できる』と単純に思っておられたようですが、まったくライスには相手にされなかった」

帰国時、事務次官人事の真相を確かめようと記者やテレビカメラが小池を取り囲んだ。小池の訪米が嫌でも注目されるように、巧みに計算されていたようにも思える。

郵政選挙の際、悪者とされた小林興起と同じ構図が守屋にも降りかかった。小林同様、恰幅がよく、太り気味の守屋は「悪人役」にはまり、クリーンな小池が果敢に戦いを挑んでいると世間には映った。

その後、守屋は商社・山田洋行からの接待疑惑が持ち上がり、特捜に収賄で逮捕起訴されることになる。「小池の嗅覚はやはりすごい」、「女のカンは鋭い」という声があがり、小池自らもそう宣伝した。一方、守屋は「特捜と小池さんとの間にパイプを感じた」と振り返る。

守屋は合計数百万円の収賄罪で起訴され、服役。約6600万円の退職金は自主返納している。

一方、小池は守屋の首を切ることに成功しつつ、「イージス艦の機密情報漏洩の責任を誰も取っていないので自分が取る」と言い、わずか55日間で防衛大臣の座を自ら降りた。イージス艦の機密漏洩問題が起こったのは、小池の着任前のことであり、辞任の説明としては説得力がなかった。官邸も騒ぎを起こした小池に怒りを滲ませており、また、ライスには歯牙にもかけられず、小池自身がひとまず降りようと思ったのだろうか。

「沖縄の基地問題の根の深さに気づき、自分の経歴が傷つかないうちに辞めたのではないか」と守屋は語る。

女性たちからの支持

その後、彼女の自己顕示欲が人事で解消されることはなかった。民主党に政権が移ると「自民党が天下を取るまで願掛けをし髪を切らない」と宣言し、自ら「臥薪嘗胆ヘア」と言い、マスコミに長髪となった理由を説明してみせた。

かつては宣伝、広報に抜群の能力を発揮し重用されたが、目立ちたいという欲が空回りし始めた印象を受ける。3年後の12年、自民党に政権が戻ると今度は「断髪式」をすると言い出した。本人は国技館を借りようと思ったらしいが、それは叶わず都内のホテルで議員を中心にした知人たちにハサミを入れさせ、やはりマスコミに取材させている。

本人は楽しんでいたのかもしれないが、少し痛々しさを感じる。こうした自己アピールも報われず、党内の「花」の役割は年若い稲田朋美や丸川珠代へと移っていった。

見栄えのする女性である、という彼女の専売特許はもはや彼女だけのものではなくなっていたのである。

だが、年齢が増していくのと引き換えに、得たものもあった。それは女性たちからの支持である。男社会の中で優遇されている女性というキャラクターから、男社会の中で孤軍奮闘してきた女性へと彼女は巧みに変貌を遂げたのだ。

男性権力者から地位を与えられないのならば、自分で掴みにいけばいい。永田町は議院内閣制であるので、トップにはなかなか立てないが首長選は直接選挙である。大衆の心を掴めば一気にトップに立てる。そうした判断から昨夏の都知事選への出馬を思い立ったのだろう。

石原慎太郎の「大年増の厚化粧」といった発言は、彼女にとって絶好の追い風となる。男性に嫉妬されいじめられながらも男性社会の不正を正そうと奮闘していると有権者の眼には映った。ミニスカートとハイヒールで選挙戦を戦った小池はパンツスーツに鉢巻という、彼女がかつて「オバサン臭くて嫌」と嫌悪した選挙スタイルに身を包み、どろ臭さを見せて、女性有権者の心を掴んだ。

この時、自民党からの除名処分を覚悟で小池の応援に駆け付けたのは若狭勝、ただひとりだった。元検事で東京地検特捜部副部長も務め、弁護士を経て14年、自民党公認で出馬し衆議院議員となった。小池とは13年の初出馬の際、選挙の応援演説をしてもらってからの縁だという。若狭は小池を擁護する。

「僕は特捜部にいて、政治家の汚職をずっと見てきた。これまでの日本の政治は『しがらみ政治』。利権構造で透明性の確保や情報公開には消極的、税金へのコスト意識も低い。この『しがらみ政治』をどうにかしなくては、政治の劣化は止まらない。小池さんは、そういったものと戦っている。自民党都連は『しがらみ政治』をしてきたから、小池さんを受け入れようとしないんです。

そもそも日本社会はあまりにも女性の視線や意見を取り入れてこなかった。多様性のない社会は弱い。国連からも女性差別の撤廃が徹底されていないと指摘されています。だから僕は、都知事は女性がいいとかねてより思っていました。その上、創造性、決断力、実行力のある小池さんなら適任です。小池さんは『しがらみ政治』と戦っているだけで、わざと敵を作って対立構造を煽っているわけではないです」

築地市場を抱える中央区の矢田美英区長は、1987年より区長に就任して現在8期目のベテランである。彼もまた小池の手腕に期待をかける。

「昨年夏、小池都知事が誕生して、いったん豊洲移転を立ち止まって考えると結論を下した。それは良かったと思います。ただ、ここまで時間がかかるとはちょっと予想外でした。遅くても今年1月には結論を出してくれるものだと思っていたんです。中央区はオリンピックの環状2号線の計画もあるので、とにかく決定を早くしてくれないと、そちらにも支障をきたしかねないから」

混乱が続く中で、小池は都議選の告示日が迫った6月20日、ようやく結論を出す。それが、「築地は守る、豊洲を活かす」という併用案だ。矢田区長はこの案を歓迎するという。

「築地を売却するのではなく活用していくという案には中央区長として賛成です。もともと私も売却せずに、ホテルやミュージアム、あるいはスポーツ施設などをつくって、活気のある街ができることを望んでいましたから。食のテーマパークというのも一案でしょう。5年後をめどに豊洲に移転した業者をもう一度築地に戻すというのは現実的には大変難しい問題も多いと思いますが、区としても築地が新たな名所となるよう都と一緒に幅広く考えていきたい」

中央区としては期待をかけているのだろう。だが、この豊洲、築地の折衷案には、「選挙対策」、「財源が定かではない」といった厳しい声も上がっている。

小池は変節したのか

都知事になってから間もなく1年が経つ。都知事就任直後は、豊洲への移転延期を表明し、オリンピック・パラリンピック会場の見直しを掲げるなど、自民党との対立姿勢を前面に打ち出していた。都知事への支持率は非常に高く、自民党都連との戦いは、連日、ワイドショーを賑わした。

その一方で、豊洲問題もオリンピック・パラリンピックの会場見直しも、何か中途半端に終わった印象が拭い切れないように思う。小池は変節したのだろうか。東京五輪組織委の副会長として交渉に立ち合った前出の遠藤は自民党議員として、この変化を好意的に受け止めていた。

「小池さんは何事も明快で、ポーンと答えを出してくる。少し早すぎるというか、周りを見ないで走っちゃうところがあるから、なかなか周りがついていけない。

けれんみのない行動力と感性。闘争心とチャレンジ精神の旺盛さは昔から。普通の人は両脇を見て走り出すけれど、小池さんは前だけ見て横を見ない。すると、あのスピードと闘争心だから、ついていける人がいないんだ。あんまり周りに人がいないのはそのせいかな。

都知事選を勝つために対立姿勢を打ち出したから、直後もそういったポーズを見せる必要があったんだと思う。だから、ちょっとギクシャクした面は確かにあった。でも、それは小池さんがよく経緯を知らなかったからで、今は状況を理解できたんじゃないのかな。森(喜朗・五輪組織委会長)さんと小池さんは仲がいい悪いじゃなくて政治手法や個性が違う。森さんは富士山に登るなら、皆に声をかけて訓練して食料を用意して、っていう人。まさにラグビーなんだ。一方、小池さんはヘリコプターに一人だけ乗って、中から皆に指示を出す。で、山頂に着いて、『早く来なさい』という感じ。まあ、勝負師なんだな。好きなのかもしれない、戦うことが」

遠藤が好意的に評価する面を、逆に危惧する人もいる。都政を長年、見つめ自らも都知事選に立候補した経験を持つ弁護士の宇都宮健児は、こう憂慮していた。

「都知事になられた直後、私は小池さんに要望書を提出しました。都の職員の方に渡して帰るつもりだったんですが、『都知事がお会いになります』と言われて部屋に通されたら、たくさんの取材陣がいて。初期の小池都政にはずいぶん私たちの意見が反映されていたと思いますが、今は小池都政に疑問も抱いています。

住民福祉は石原さんがずいぶんカットして、その分を投資や湾岸開発に回してしまった。それを小池さんはどう考えるのか。小池さんのいう都民の中に弱者が含まれているのかも疑問です。在日の方、障害者、非正規労働者、こういった人への配慮はあるのか。自民党との違いが不鮮明になってきているように感じます」

自民党との繋がりが小池都政の命取りになると危惧する声は、小沢一郎自由党代表からも聞かれた。

「都議選は勝つでしょう。彼女がくまなく回って応援演説すれば。では、勝ってどうするのか。そこで何をするのか。そこからはじめて彼女に、本当の評価が都民から下されることになる。だから、これからが大変なんです。

今、子どもの火遊びみたいなことを官邸がやっている。権力の適切な使い方を安倍さんは知らない。彼女がその二の舞をするとは思わないけれど、気を付けなきゃいけない。

人間はそれなりのポジションに就くと、どうしても保身の欲が出てきます。それが心の中で勝ってしまうと、もうダメだ。自分を捨てないと政(まつりごと)はうまくいかない。安倍政治に対する不満が、小池さんへの期待につながっている部分がある。でも、それが自民党にすり寄っているとなったら、都民は引いていくでしょう。ちょうど、民主党が自民党にすり寄ってダメになったように。

ようやく離党届を出したようだけれど、どこまで反自民を打ち出していけるか。途中ですり寄ったらダメだ。ただ知事になっていたいと思ったら、自民でも安倍さんでもすり寄ればいいけれど。でも、何を考えているのか、もうひとつわからないところがある。理念的なものを持っているのか。自民党とそんなに大きく考え方が違わないようにも見えます」

築地移転の方針を示した3日後の23日、公示日を迎え都議選が本格的にスタートした。選挙を仕切るのは小池百合子の「腹心」「参謀」と言われる、元都議の野田数である。都議時代には尖閣諸島購入計画を熱烈に支持し、大日本帝国憲法の復活請願を都議会に出したことでも知られる。小池とこの野田によって「都民ファーストの会」の候補者は選定された。候補者たちは小池をひたすら仰ぎ見て、その考えに追従すると表明している。

政治家というよりも「女優」

彼女を語る声と、彼女自身による「語り」との間にある隔たり。それを知った時、私の中で彼女は、政治家というよりも「女優」の印象が強くなった。

彼女は与えられた役を演じているだけ。あるいは、「女性の政治家」という役割を、求めに応じて演じているだけなのではないだろうか。だからこそ、そこには彼女の深い意思を見出すことはできない。私のなかにあった彼女に対する「戸惑い」は、彼女を女優だと捉えることで消えていった。自分のイメージを守るために「語り」続ける。事実の上書きをする。主張にずれが生じることも女優であれば、役が変わるのだから当然だろう。

スポットライトを浴びたいという欲求。どこに行けば自分が注目されるのか、どうすれば世間からヒロインとして扱われるのかを常に考える。こうした「女優」気質に彼女自身も振り回され続けているのではないだろうかと思う。

彼女は生まれたときから頬に大きなアザがあったという。「百合ちゃんは美人じゃないから、ひとりで生きていけるようにならなくてはダメよ」と幼い頃から母に言われ続けた。このアザこそが自分の生きる原動力になったと、議員になりたての頃、雑誌のインタビューで語っている。

彼女の人生は、この頬のアザを化粧で隠すことから大きく変わっていった。魅力的な容姿は天から与えられたものではなく、彼女の努力によって後天的に得られたものであり、だからこそ彼女は、それを最大限に活用して、自分ひとりで生きる道を模索し続けた。「語り」という化粧とともに。

事業に失敗した父親は日本からカイロに渡ると、アラブの実力者との会合に着物を着させて娘・百合子を同伴した。男性の実力者への身の処し方は、その頃から身に着けたものなのだろう。そんな両親を小池は、最後まで経済的に支えた。「強い人が好き」と理想の男性像を聞かれて答えているが、権力者を好むと同時に、権力者になりたいと願ったのは、落魄(らくはく)し娘を何かと頼ろうとする父親を見てきたことと無関係ではないだろう。

常に自分が生き延びることを優先し、彼女は情を切り捨ててきた。そんなものに気を捉われていたら、自分も足をすくわれて、深い淵に沈んでしまうといった強迫観念のようなものがあったのだろうか。上へ上へと浮かび上がろうとし、状況も人も利用してきた。では、すべてを手にしたとき、彼女はスポットライトを浴びるということの他に一体、何をやりたいのだろう。

選挙カーという舞台の上で黄緑色の衣装を身につけ、「女性初の都知事」という役を演じ続けている。熱狂なき観客を前に、候補者という脇役を横に。それでも彼女の表情は恍惚と、輝いているように見えた。

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